【長さ】約500cm
群馬県 碓氷製糸場で生産された赤城の節糸を 精練しない生絹の状態で市松状に製織された吉野織 九寸名古屋帯。
ほんのりピンクがかった上品なベージュの地色は生気を帯びた人肌の温もりを感じさせます。
上原さんが使用される絹糸は春に採取された繭が用いられています。以前に上原さんにお会いした時にその理由を尋ねるとこんなことをおっしゃっていました。
「春繭は秋繭に比べやはり上質です。そして上州座繰機で引かれた糸は何て言ったらいいのか・・そう 底光りするんですよ」
底光り・・絹が本来もつ奥底から湧き立つような美しさとでも言いましょうか 独特の表現方法ですので完全に理解することは出来ませんが そういわれて眺めると確かにその美しさを感じるのは決して気のせいではないのでしょう。何より絹をこよなく愛する上原さんが感じられるのですから。上原さんは本当に無邪気で嬉しそうな笑顔でそう話されるのです。失礼かもしれませんが少女のような純真さと糸をまるで自分の子供であるかのような ひょっとすると分身とさえ思っておられるのかもしれません。
本品はざっくりとした肌触りなのですが それは生絹(なまきぬ)を完全に精練していない為です。
精練する前の絹糸はまだとても硬いものです。絹はフィブロインという物質にセリシンというタンパク質の一種でコーティングされています。繭の状態で紫外線などからお蚕さんの身を守るためです。このセリシンを精練と呼ばれる工程により落とすことで絹が持つしなやかなドレープ性と煌びやかな光沢が現れます。
その精練を不完全に処理することでタンパク質が残りこのシャリっとして少しざらつきのある味わい深い織物に仕上がるのです。
そしてどれくらいタンパク質を残すのかは上原さんの長年の経験によるものでそこにも強い拘りを持たれています。一般的には化学薬品によって精練されるのですが 上原さんは親しい陶芸家の方から陶器を焼き上げる際に残った木灰を譲り受け 水の中で掻き混ぜその上澄みを使って精練されます。今までの経験からどれくらいが丁度いいのかpH(ペーハー)の濃度を測りそれを用いられるのです。絹を愛する上原さんだからこそ天然のものに拘り糸を労わることによって絹が持つ潜在能力を最大限引き出されているのです。
手間を惜しまず 美しさを追求する それが上原さんの「100年後の人々に感動してもらえる織物を作りたい」という情熱であり譲れないプライドなのです。
私の前で見せてくれた少女のような笑顔とキラキラと光る眼差しとは裏腹に物作りへの執念ともいえる強い信念を感じさせるのです。
糸染めされる染料は沖縄の自宅の庭などで採取される天然の草木が用いられます。本品はインド藍を使用してピンクベージュの色に染められています。
商品に付けられているラベルを見ると「染料 インド藍」と上原さんの手で書かれています。実はこれを見た時に「藍染?藍色ではないのに?」と思い 問屋さんを経由して尋ねていただきました。すると「藍で染めていますよ、でも発酵建の藍染ではなく藍の生葉を使っているのです。手法は媒染材など詳しいことはお教え出来ませんが 藍は様々な色を出すことが出来るのです。その無限の可能性を皆さんに知っていただきたくて。」実は絣柄の部分はログウッドで染めているのだそうですが 皆さんにこれは藍で染めたものだと注目してもらえるようにラベルには敢えてそれを書かずに「染料 インド藍」とだけ記載しているのだとか。上原さんの思惑にまんまと引っかかってしまったというわけです。。。
そういえば 上原さんの代表的な作品である立湧織の名古屋帯をいただいた際にも直接同じ質問をしていたことを思い出し少し恥ずかしくなったのでした。。
その帯は赤紫やグレーの色に染められていたのですが、こんな風に言われていました。
「発酵建てした本藍は使いません 藍の生葉を使って染めるんです 発酵建ての藍だと藍色にしか染まりませんが生葉だといろんな色に染められるんです。グレーなんかはとっても綺麗な色に染まります。」
紫系やグレーにも染められる植物のままの藍。それがこんなピンクベージュにも染められるとは本当に驚きしかなく藍の無限の可能性と魅力を感じてしまうのです。
ロートン織された絣柄がこの帯のアクセントとなり趣き深さを更に際立たせています。ぱっと見はヨコ絣の柄になっているのかと単純に思ったのですが、よく見てみると縦糸と緯糸を一本ずつ交差させる平織の部分と縦糸を3本密集させて緯糸を被せるように織られた部分により柄に変化を持たせ眼鏡織になっているのです。絣による色の変化と織の変化による2重の細工が吉野格子の地模様の中で絶妙の動きをかもしだしており 単なるヨコ絣とは異なるお洒落さや味わいを漂わせています。
※下の拡大写真を見ると部分的に縦糸を3本束ねられているところと 縦糸緯糸が交互に上下されている所があるのがお分かりいただけると思います。 この変化が眼鏡状の柄になり、無地場に市松の地模様が現れるのです。
※縦糸を3本束ねて緯糸を織り込んだ箇所。その上下は一本づつ交互に上下させています。
※柄部分の縦糸と緯糸を一本づづ交互に上下させた箇所。その上下は縦糸を3本束ねています。
生まれ育った沖縄の歴史と現実 自分自身の生い立ち それらが複雑に絡み合って自分を見失いそうになった時・・・自分を見つける為に実体のあるリアリティーを求めた先に有ったものが織物 それが上原さんが織物に携わることになる入り口だったと語っておられます。第二次大戦を身をもって体験され片足を失った母親から幾度となく聞かされた事からまるで自分自身が体験したようにリアルに映像として刻まれた沖縄の悲しい歴史 東京での短大時代に沖縄へのその思いから学生運動や沖縄本土復帰運動などにも顔を出された中 アジテーション(扇動)という実体のない言葉だけの薄っぺらさに嫌気がさし 自分がやりたいことが見つからず一体何が出来るのだろういうコンプレックスが絡み合い 実体のあるものを生み出す事へその意味を求められた先に出会ったものが織物だったのです。
上原美智子
1949年(昭和24年)沖縄県那覇市に生まれる 高校卒業後上京し大学卒業後1971年(昭和46年)民芸運動の父「柳宗悦」氏の甥にあたる「柳悦博」氏に師事し染織を学ぶ。柳氏は多くの弟子を取らず順番待ちの状態だったのですが 上原さんが沖縄出身だと知り運よく弟子に迎え入れられたのだそうです。柳宗悦氏が沖縄の染織に感動し沖縄の工芸品を広く世に知れ渡らせることによって沖縄処分以降衰退していった伝統工芸が復活したという歴史があったからこそ悦博氏が上原さんを弟子として迎えられたきっかけだったのでしょうか。
そして1974年(昭和49年)沖縄に戻り 第二次世界大戦で壊滅状態であった沖縄の染織を紅型染の城間栄喜氏や芭蕉布の平良敏子氏らとともに復興に尽力された「大城志津子」さんの元で沖縄の織物技法を学ばれました。
1974年(昭和54年)まゆ工房を設立し独立 その際にはお父様や公庫に頼み込み借金をし独立されましたがその返済に困り大変苦労されたという事です。それでも織物の世界で生きていきたいという強い信念が実り 作品が認められ 個展やグループ展を数多く行われ 着尺や帯だけでなく「あけずば織」のショールの制作など和洋の世界で広くご活躍されています。
※本品は3通の柄付けになっておりますのでお太鼓の柄と前帯の柄との無地場が少なく 柄出しも比較的容易です。
前帯の柄も長めに取られています(約60㎝)
糸をこよなく愛し妥協を許さない強い信念をもって作品作りに取り組まれている染織作家 上原美智子さん。
国産の春繭を上州座繰機で引かれた特上の絹糸の底光りする美しさ 精練しきらないシャリっとした風合いが生み出す味わい深さ そして草木染の温もり色 それらが吉野格子に眼鏡織の絣模様と相まって 工芸染織としての作家らしい上質感やお洒落さ そして個性と言った魅力たっぷりの名古屋帯ではないでしょうか。
本品は透かし織りになっており透け感がありますので単衣から夏にかけても適していますが 10月・11月・3月・4月の袷の季節にもお使いいただけますし着物愛好家の方には冬でも真綿紬とコーディネートして楽しまれる方もおられます。紬専門問屋さんの間でも夏物という位置づけではなく通年お使いいただけるものとして販売されていますので 単衣や夏は勿論 袷の季節にも是非お使いいただきたく存じます。
最後に・・上原さんは あけずば織のショールを製作されておりますが、今後はヨーロッパでの展覧会に向けての製作に入られるため 帯の製造を中断されます。その期間がどれくらいなのかは全く分かりませんが しばらくは新しい品は出来上がってこない為 商品の魅力は勿論ですが中断前に最後に出来上がってきた帯を仕入れてまいりましたことをお伝えしておきます。
※写真と実物とはモニターや画像処理の関係上、若干異なる場合がございますので予めご理解ください。