草木染の趣き 生絹(すずし)の清涼感 そして手業の温もり
柳家の系譜を伝承する民藝の極み
染織作家 柳崇(やなぎ そう)氏作
手織り 緯浮き織 夏九寸名古屋帯 生絹地
【製作者】柳崇(やなぎ そう)
【品質】絹100% 生絹 赤城手引き
【染色】地色:渋木(ヤマモモ) 縞(濃灰:矢車 ワイン色:化学染料) 浮織糸:絣糸・渋木
【着用時期】単衣・夏 6月頃~9月
【長さ】約530cm
草木染の自然色が放つ安らぎ
天然の香り漂う薄ベージュの渋木染地に黒とワインのストライプが現代チックな趣きを漂わせます。工芸染織の中にあってもこの色使いは明らかに一線を画する存在感を放ちます。
静かな地色に浮かぶワイン色の縞 それに並ぶの矢車染めの黒縞とのコントラストが安らぎとさえ言っていい感覚に導かれるのは何故なのでしょうか。ワイン色は化学染料を使用しているものの 地色と黒縞の草木染による自然色が古代より人間に組み込まれているDNAに何らかの力が作用しているのかもしれません。※何故ワイン色は化学染料を用いているのかは後ほど説明しています。
故に ともすれば奇抜とさえ見えてしまうかもしれないこの配色に全く違和感を感じる事なく、ワイン色を優しく包み込むようなナチュラルさを受け入れてしまうのでしょうか。
目に見えるものの向こうに存在する別の世界といえば大袈裟かもしれませんが 糸の良さを損なう事なく最大限に生かすという柳氏の信念が成せる技なのでしょう。
生絹の清涼感と味わい
糸にも拘りを持たれる柳氏 本品は国産繭から手引された絹糸が用いられています。
お蚕さんが吐き出した絹の繊維はセリシンと呼ばれるタンパク質で覆われています。その物質は硬くお蚕さんを紫外線から守ります。その蚕から繊維を引き出し数本を引き揃えて一本の糸に製糸されるのですが、その後このセリシンで覆われた糸を精錬と呼ばれる工程により取り除き白く輝く糸に仕上げられるのが一般的です。
しかし 敢えてこのセリシンを落とさずにシャリっとした張りのある糸のままの状態を生絹(すずし なまぎぬ)と呼び それによって製織する事で肌触りに独特のざらつきが出て肌に密着せず清涼感が生まれるとともに 渋く光る趣深い光沢を放つ織物になります。工芸品らしいこの風合いと渋さが夏の紬のお着物にマッチし自然と調和した着姿を演出してくれるのです。
余談ですが、本品の赤色はなぜコチニールなど草木染料を使われないのかをお聞きしたところ コチニールなど赤味の色を染めるためには熱を加えなければいけないのだそう。そしてその熱でセリシンが溶けてその色の部分だけがクタッと柔らかくなってしまう為に敢えて化学染料を使われたということです。何でもかんでも草木染というわけではなく その作品の糸質や出来上がりに合わせてもっとも最適な染料は何かを常に考えておられるのです。「長く染織をやっているので頭で考えなくても自然と分かるんです。」そう柳さんはおっしゃっていましたがそうなるまでのキャリアは流石と唸らずにはには入られません。
絣糸と渋木染めの糸をコラボさせた浮織横縞
一定間隔に配された浮織縞には渋木染めされた糸が用いられていますがその中央にはブルーの絣糸が一往復だけ打ち込まれています。細い浮織縞の中にさらに2種類の糸を用いる事で生まれる奥行と揺らぎが帯地全体に変化をもたらします。浮き織りとして目に見える線の中に感じる程度の糸の変化なのですが これがひと味もふた味もこの帯地の魅力を引き立てているのではないでしょうか。
※この絣糸は別の帯地を製作した際に残った残糸が用いられています。
柳宗悦より伝播された民藝の美
この絹布を語るうえで、柳家の歴史と信念を知らねばなりません。
本品の製作者であられる染織家”柳崇(やなぎ そう)”さんの染織の美にたいする根幹をたどると、民芸運動の父とうたわれる”柳宗悦氏(やなぎ むねよし)”に行きつきます。
明治の頃に志賀直哉、武者小路実篤らとともに雑誌「白樺」を創刊し、ロダンやゴッホといった西欧美術を世に紹介したのが同氏の民芸運動活動の始まりです。
そもそも「民芸」とはいったい何なのでしょうか。
それは、庶民の生活から生まれた日常品の中にこそ美しさがあるという発想から生まれました。
伝統的な手仕事の素晴らしさを悟った宗悦氏は、その民衆の伝統技術を調査するため全国を巡る中で「民衆的工芸」の略語として「民芸」という言葉を作り運動としました。
宗悦氏は、沖縄をはじめ全国各地の工芸品を調査する他、「行状のすぐれた念仏者」の研究にも力を注ぎ、浄土思想として仏教と結びつけて「民芸美術」の基盤としました。
「無名の職人が作ったものが何故美しいのか」それは「信と美」の深い結びつきにあるとし、その考えは仏教美術へと深まりました。
そしてその宗悦氏の思想を染織の分野で担ったのが同氏の甥である柳悦孝・悦博兄弟であり、その悦博氏の子にあたるのがこの作品を作り上げた”柳崇氏”です。
崇氏の父”悦博氏”はほとんど独学で染織を学び、彼に学んだ染織作家の多くは国画会や民藝館展などで活躍されています。
全国を廻り自分の目で工芸の仕事場を見たり、一枚の裂から技術を習得していった悦博氏の感性は、何物にもとらわれない自由な発想を生み出す能力を培い、弟子に対しても多くを教える事なく彼らの感性に任せて育てていかれたようです。
柳崇氏も『父に教わったことと言えば、染のやり方くらいで染織のことはあまり話してくれなかった』と語られています。
糸作りや色の配合の技術的なことは教えられても感性はその人それぞれが独自に持っているものであり、それは教えられるものではなく独自で生み出す自由な発想の中から自然に生まれてくるという考え方なのでしょうか。
自由奔放な中にも柳崇さんの技法は、どんな小さな工程でも精巧な理論に裏付けされており「理論を打ち立てて行動していくという気質」が柳一族の根幹にあり、その精巧な理論と生まれ持ったセンスともいえる感受性とが融合して初めて人の心を動かす作品が生み出されるに違いありません。